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2005.08.21.(SUN)

Aiichiro Kohno

今日の要点 No.12 『イスラムB』

 

1 オスマン=トルコ

 

《年表》

 

1299 オスマン1世(オスマン=ベイ)建国

1326 ブルザを首都とする

1366 アドリアノープルに遷都

1389 コソボの戦いでボスニアを制圧

1396 バヤジット1世、ニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムントを撃破

     cf;ニコポリス十字軍

     cf;ジギスムントは後に神聖ローマ皇帝に選出され、コンスタンツ公会議を開催

1402 アンカラの戦いでティムールに敗北

1453 メフメト2世、コンスタンティノープルを攻略(東ローマ帝国滅亡)

     コンスタンティノープルはイスタンブールに改称

1514 セリム1世、タブリーズ占領(サファヴィー朝)

1517 マムルーク朝撃破し、カイロを占領

     →カリフ地位を獲得。

     cf;1517年はルターの宗教改革と同年

     cf;スルタン=カリフ制

1526 スレイマン1世、モハーチの戦いでハンガリーを征服

1529 第1回ウィーン包囲 → 撤退

     cf;神聖ローマ皇帝カール5世は第1回シュパイエル帝国議会を開催

1536 カピチュレーションをフランス王フランソワ1世に与える

     ・・・治外法権を含み、後に、列強進出を引き起こした。

     cf;イタリア戦争以来の独仏の対立

1538 プレヴェザの海戦でスペイン(カルロス1世)などと戦う

     →地中海の制海権を確保し、最盛期

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1571 レパントの海戦でスペイン(フェリペ1世)に敗北

1683 第2回ウィーン包囲

1699 カルロヴィッツ条約

1839 タンジマート開始

1922 オスマン=トルコ滅亡

 

【オスマン=トルコの統治体制】

 

<民衆>

カーディー ・・・ムスリム

ミレット ・・・非ムスリム(納税と交換に自治権付与)

 

シパーヒー

官僚

イェニチェリ

 
          

 スルタン   

 

 


    スルタン

・・・オスマン帝国のみならず、イスラム世界の政治上・軍事上の最高指導者である。マムルーク朝征服で宗教上の最高権威(スルタン=カリフ)も得た。

 

    イェニチェリー

・・・官僚登用に活用されたデウシルメ制を利用して、戦力補給とキリスト教徒同化のために採用を行った。

 

 

2 イスラム=インド(ムガル帝国)

 

《年表》

 

11C  アフガンのガズナ朝のインド侵入

     建国者;アルプテギン

12C  ゴール朝によるインド進入 → 北インドのイスラム化

     建国者;ムハンマド

1206 デリー=スルタン王朝開始 (@〜Cがトルコ系)

@      奴隷王朝  建国者;アイバク

A      ハルジー朝 

B      トゥグルク朝

C      サイイド朝

D      ロディー朝 (アフガン系)

    南インドにはヴィジャヤナガル王国

 

1526 バーブル、パーニーパットの戦いでロディー朝に勝利し、デリーにムガル帝国建国

1556 第3代アクバル大帝即位

     都;アグラ

@    行政制度(州・県に分ける)の確立(中央集権化)

A    全土の検地を実施

B    土地面積に応じた徴税システム(→地租の公平化)

C    ヒンドゥー教徒(ラージプート族など)への人頭税ジズヤ廃止

(→宗教的融和を促し、インド社会の安定を実現)

    土地私有に対し・・・

・・・中央から州・県・郡に役人を派遣したが、彼らに土地を与えず、棒給を支給して封建領主化を防いだ。

 

1628 第5代シャー=ジャハーン

  都;デリー

  タージ=マハル廟を建設

 

    ムガル文化最盛期

【背景】 インド・イスラム文化

      ← ムスリム改宗者増加 ← スーフィーの活動 ← 融和的政策

【言語】 公用語としてのペルシア語、ヒンディー語

      → ウルドゥー語の成立

【描写】 ミニアチュールの発達 

→ ムガル絵画 ・・・ 宮廷画、肖像画

→ ラージプート絵画 ・・・ ヒンドゥー的

【宗教】 バクティ信仰(ヒンドゥー教) ← 啓蒙思想の影響

       +シク教徒の出現

         ・・・教祖、ナーナク。カースト制度を否定し、パンジャーブ地方で拡大する。偶像崇拝も禁止。

    イスラム教の受け入れやすさ↑

・・・神への絶対的帰依を説き、最高神と一体になる道を求める点で、イスラム神秘主義と共通している。

 

1658 第6代アウラングゼーヴ帝

     帝国の最大領域を達成

     ジズヤ復活

     帝国の分裂

 

【ムガル帝国の統治体制】

◎アウラングゼーブ帝以降

 

諸侯

官僚

軍人

 
          

ザミンダール   ←  農村

(徴税請負人)

 
  皇帝   

           

 

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1757 プラッシーの戦い クライヴ率いるイギリス軍が勝利

1857 セポイの乱 → 鎮圧

     cf;ラクシュミー=バーイー

1858 ムガル帝国滅亡

1877 インド帝国成立

 

    イギリス支配下インドでの社会変化

 

@    新地税制度 → 新興地主と小作人 → 農村における階層分化

A    原料供給地と販売先として、専ら収奪される貿易

B    新三角貿易

 

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